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上洛の途上に病没、死は秘匿された [名言]

一路、京へと上洛の軍を進める信玄は、三方ヶ原にて家康軍を撃破。
さらに三河の野田城を落としたが、この頃から度々喀血。病は一向に芳しくならず、元亀4年(1573)、軍を甲斐へ引き返す街道上にて死去した。享年53(当時は数え年である)。臨終に際し、信玄は「自分の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めること」と、遺言。
子の勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行うことなく、その死を秘匿した。死因に関しては、労咳(今でいう肺結核)、胃ガン、食道ガンなどによる病死説が有力である。変わった死因説としては、野田城を包囲中、城内から流れ来る笛の音色に魅かれて堀端近くに赴いたところ、銃で狙撃されたという話があげられる。黒澤明監督の『影武者』には、この話に拠るワンシーンがある。なお、「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」は、信玄の名言として今日に伝わっている。


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5度の合戦が行われた川中島の戦い [川中島の戦い]

天文22年(1553)、村上義清ら豪族から領地復権の要請を受けた上杉謙信は信濃へ出兵。
以来、信玄と善光寺平の主導権を巡って、5度にわたり川中島の戦いが行われた。
この北信濃における一連の対決の中でも、永禄4年(1561)の第4 次川中島の戦いは最大規模の合戦となった。

信玄と謙信の一騎打ちの伝説が残る激突となり、上杉軍は3千余、武田軍は4千余の死者を出した。
加えて武田軍は、信玄の弟である武田信繁や軍師・山本勘助など名立たる武将が討ち死にしている。

勝敗定かならぬ痛み分けの戦いとはいえ、信玄にとっては痛恨の極みであったろうと推察される。

こうした10年以上に及ぶ川中島の戦いの後、信玄は駿河などを攻略。元亀3年(1572)、将軍・足利義昭の織田信長討伐令の呼びかけに応じ、いよいよ上洛をめざして進軍を開始した。率いるは3万ともいわれる大軍である。

父親を追放して家督を継ぐ [武田信玄]

大永元年(1521)、甲斐の守護大名、武田信虎の嫡男として生まれる。
幼名は勝千代。この頃、すでに父・信虎は甲斐一国を制圧、勇猛で知られるも残酷な性格であった。

妊婦の腹を裂いて胎児を見る、重臣を手討ちにする、信玄の弟に家督を譲ろうとする…信玄は、この粗暴な父を重臣らと図り、策略を用いて駿河の国へと追放。
武田家第19代の家督を相続した。

旗印は風林火山
これは、中国古代の兵法書・孫子に記された「はやきこと風の如く、しずかなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し」という語句を略したものである。
その後、信濃の国を平定。
信玄に敗れ、信濃を追われた村上義清、小笠原長時らの豪族は越後へと逃れた。義を第一とする越後の国主、上杉謙信を頼ったのである。

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